心残りなこと -小林秀雄に会えなかったことー

小林秀雄と2度お会いする機会があったが、・・・。
一度目は、昭和56年春、二度目はその年の夏。

 この仕事での心残りが二、三ある。
 昭和五十六年の春である。ライスター氏と共演したモーツアルトのレコードの評判がいいので、小林秀雄先生に聴いてもらえないかと考え、辻村明先生が小林秀雄先生とお付き合いがあるので、打診した。辻村先生も大賛成なのでお送りしたところ、小林先生から辻村先生に、
「素晴らしい、かつて聴いたことがないようなモーツァルトだ」
 と激賞した礼状がきたというのである。そして、
「一緒に鎌倉のお宅へ行き、話を伺ってこようじゃありませんか」
 という。どうも辻村先生は、天下の一大事をいとも簡単にいわれるので、咄嗟の対応に狼狽し、誠に困る。
「では先生のご都合を伺って、返事します」
 ということになった記憶はたしかだから、林先生に続いて小林先生と、わが身を省みず、再びの”エベレスト登頂”を判断したらしい。
 ところが、
「お待ちしているからと、先生から返事がありました。この日はどうですか?」
 との連絡に返事をしたその約束の日が近くになると、風邪をひき寝込んでしまった。絶好のチャンス逃してなるものかと薬をのんだが、熱が一向下がらずとうとう約束の日がきてしまった。
「どうしても無理ですか、残念だが私一人で行ってきましょう」
 と、生涯の機会を逃してしまった。あまり残念なので、
「草津アカデミーへぜひご招待してください」
 とお願いしたら、これもまた好調に運び、
「ご夫妻でお出になるそうです」
 と、辻村先生から返事があり、日程を調整したら、このたびは皇太子殿下御夫妻もお見えになるということで、地元も緊張、大いに張り切った。ところが、その翌日から台風の襲来で全交通機関が途絶、草津は全く陸の孤島となり、両陛下も小林先生も、草津入りは不可能になってしまった。
「丸山さん、残念ですね、列車が全然動かないそうですよ」
 東京から辻村先生の電話が空しく響くのみだった。
 小林秀雄先生の訃報を聞いたのは、昭和五十八年三月だった。

      丸山勝廣著「愛のシンフォニー」(1983年11月25日、講談社刊)より

(注)旧「観音山日乗」サイトより転載しました。