聖地

和田橋上流側

今週末は高崎まつり。
例年、8月最初の土日で行われるお祭りの1日目の夜、花火が烏川河畔で打ち上げられる。その日の朝、烏川の観音山側の堤防には、競ったようにブルーシートが並べられる。

昨年秋から、その堤防が、コンクリートの段々の観覧席になるために改装工事されている。そして、花火の日に合わせ、その段々はオープンを待っている。
高崎の市街から、白衣観音に向けて烏川を横切る和田橋。市街から車を進めると、両側にグリーンの芝とそして、コンクリートの観覧席。右側、上流側には、原っぱとソフトボールのグラウンドが2面、さらに上流にはラグビーのグラウンドとヘリポート。左側、下流側には、緑一色、7面の少年サッカーのグラウンド。まだ、工事中のオレンジの網の仕切りがしてあるが、まもなくここは県内最大の少年サッカー場として、子どもたち、保護者たちの歓声を聞くことになるのだ。聖地、まさにその言葉にふさわしい場所に生まれ変わりつつある。

サッカーグラウンド側

高碕西FCは、この和田橋グラウンドをホームグラウンドとするサッカークラブである。いや、ホームグラウンドとしたサッカークラブである。

1970年代前半、高崎に少年サッカーを普及させようという動きがあり、そこからいくつかのサッカーチームが分かれて行った。東、西、北、中央。東は高崎東、今のFCイーグル。中央が、1FC中央。北が高崎北スポーツ少年団、今の北スポ。そして、西が、高崎西FC。地域で分けられたこともあり、西FCはこの和田橋グラウンドを練習場とし、片岡・乗附地区を中心に高崎の南、西方面から子どもたちが集まったようだ。

そして、土日の週2日の練習。
当初は、土曜は小学校も半ドンで、午後2時から4時半まで、日曜日は現在と同じ、9時から11時半までという時間帯だった。
和田橋グラウンドは、現在の堤防側の4面、その和田橋に一番近いAコートが練習場だった。AコートからCコートまでは土のグラウンドで、Dコートは芝というよりも半ば草の中に芝あるという感じのグラウンドで、そのAコート、時にはBコートも合わせた2面を使って練習していた。大会があったり、他のチームが試合のために使うといったことがない限り、いつもここで練習ができた。
練習時間に集まって、グラウンドが空いていればそこで練習、空いていなければ、河川敷の空いている場所で練習というチーム内での暗黙のルールがあった。
大会で自分たちが予選で負けていたりすると、和田橋の上流側の原っぱで練習するのだが、大会に出ているチームが練習するためにこの原っぱにやってくることもあり、コーンで場所を確保しての練習になる。
このように西FCのホームグラウンドは和田橋Aコートだった。

学校が週休2日になると、大会も増え、やがてAコートが使えない日が増えてきた。練習にグラウンドに行くと、他のチームが試合をしている、大会をやっているということが増え、草原での練習、更にそこも駐車場等で使えないことが増えた。

今、土曜日は乗附小、日曜日は和田橋の草原で練習を行っている。Aコートが使えないことが増え、土曜日を多くの子供たちが通う乗附小を「乗附ライオンズ」という少年野球チームに半日融通してもらい、そこで練習している。そして、日曜日はいつからか和田橋横の草原が定位置になっている。
今年、2月ぐらいからこの草原も工事の作業場として使えなくなり、現在は「乗附ライオンズ」の好意に甘えながら、乗附小で練習している。花火大会後、再び和田橋の草原に戻ることができると思っているのだが・・・。

土のグラウンドの頃、Aコートの端に2本の木があった。休憩中、その木陰で休んでいると、子どもたちが集まってくる。木の根元で昆虫を見つけた子供を囲み、昆虫を指でふれながら、観察したりしていた。休憩が終わると、一斉にグラウンドに散っていった。
冬は、砂埃を背で受けながら走っていた。

和田橋グラウンドは、聖地であった。