地方の悲しみ -福原匡彦氏のことー
義父は三冊の本を書いています。
「この泉は涸れず」(本多書房刊 1967年8月1日発行)、「わが胸に泉あり」(カワイ楽譜刊 1972年10月1日発行)、「愛のシンフォニー」(講談社刊 1983年11月25日発行)の三冊。
三冊目の「愛のシンフォニー」は、当初「地方の悲しみ」というタイトルで、福原匡彦氏が編集の責任をされていた「文芸広場」という雑誌に掲載されました。
そして、この福原匡彦氏との出会いこそ、義父を語るとき欠かせないものです。「愛のシンフォニー」から抜粋します。
福原匡彦氏との出会い
人と人との出会い・・・歴史は常にそこから生れる。それにしても、その出会いの微妙さは、人知をはるかに超え超越者の存在をも考えなくてはいられぬ不思議さがある。一体その不思議を用意し、時をはからって実現し、事をなしとげていくのは誰なのか・・・。
残された唯一の希望を、山田先生の一言にすがり、文部省社会教育局芸術課のドアを開けたとき、ただ一人すわり、窓外を見つめる人の後ろ姿が眼に人った。昼休みだったのだろう、課内に他の人影はなかった。
「群響の丸山と申しますが」
ほとんどその瞬間、その人はこちらを振り向いた。
生涯の人、福原匡彦氏とのそれは最初の出会いだったのである。
その人がいなければ、できなかったであろう仕事を、何も知らずに始めたとき、その人が、その場で待ちうけていてくれる。強運を思わずにはいられない。
前回の文部省詣では、初等教育課で惨敗した。その記憶があまり生々しかっただけに、パッとしない芸術課だったが、初対面の福原課長補佐は実によく面倒をみてくれた。暗夜に灯を見つけた気持ちの私が、猛烈な文部省通いを始めたのは自然の成り行きであった。
「この人は、なぜこれほどまでに親切にしてくれるのだろう」
と、一抹の疑念を常に抱きながら……
急速な個人的接触が福原さんとの間に始まり、親密の度はいつしか役所を離れての、つき合いにまでなっていったある日、私は心の疑念を晴らす言葉をきいた。
福原さんが、私や群響に持つ好意、それはやはりあの「ここに泉あり」が生んでくれたものだったのである。
学校を出て、内務省に入った福原さんは、山梨県教委から、岐阜県教委と移り、そこで約十年を過ごした。その間福原さんを支えたのは、強い地方主義といったものだった。
「地方がよくならなければ、日本は駄目になる」情熱をかたむけて、地方巡りをした若き日の姿が眼に浮ぶようである。しかし地方の壁は厚かった。十年の地方生活は失望と挫折感を味わわせて終ったようである。福原さんは本省に帰る覚悟をきめ、そのためのすべての手続きを了えた直後、「ここに泉あり」を見たそうである。
「批評とは、その人の身になって物をみることだ」こんな意味のことを、小林秀雄氏はいわれたが、この言葉は福原さんと地方の関係をいい得て誠に至言であると思う。
丸山勝廣著「愛のシンフォニー」(1983年11月25日、講談社刊)より
「ここに泉あり」を見た直後に福原氏が思いを綴った「地方のかなしみ―東京の友人に送る手紙―」と題した文章があります。福原氏自身が「泉は涸れず ―丸山勝廣と群馬交響楽団―」(林健太郎・辻村明 共編 毎日新聞社刊 1998年12月10日発行)に転載しているので、抜粋させていただきます。
地方のかなしみ ―東京の友人に送る手紙―
昨日、僕は『ここに泉あり』という非常に興味深い映画を見た。この映画は地方に生れた交響楽団が苦労して育っていく過程を描いたものだ。何度も苦労に押しつぶされて解散しかかっては、そのたびに思い直したように頑張り返すこの楽団の努力は、地方文化の実態を鮮やかに写し出していたように思う。もうほとんど地方人になりきってしまっている僕からみると、よくここまで地方文化の姿をありのままに再現してくれたと、感慨無量のものがあった。幾つかの感動的な場面で、胸に大浪のようにこみあげてくるものを感ずるとき、僕はその場面そのものにうたれてというよりは、その底に流れるいわば″地方のかなしみ″に心をうたれて、涙の溢れてくるのに任せていた。
僕は岐阜に来てもう足かけ十年になる。その間に一番痛切に感じたことは、ほかならぬこの″地方のかなしみ″であった。地方に住むことは勿論いろいろな意味で不便を伴なうが、中でも地方にあって本当の文化を育てるほど苦しいことはない。日本で地方といえば東京を除きあと九割の人口を占める大事な部分だ。にもかかわらず、この国ではあまりにもすべてが東京中心であって、文化も東京でだけ花ひらく。地方で文化に携わり、本物たらんと志ざすことは、すでに一つの悲劇を覚悟することにつながっているのである。
大体が、地方では文化は引き合わない。文化の仕事では生活できないのだ。映画では、楽団のマネージャーが私財をなげうち、妻君に逃げ出されるまでにして楽団を維持しようとするところが出てくるが、本格的な文化に取り組もうとすると、地方では犠牲的奉仕を余儀なくされ、金銭には換えられない仕組になっている。だから、親譲りの財産があるか援助してくれる人がいるか、別に安定した職業を持っているか、そうした特例ででもない限り、中道で挫折することになるのである。地方文化は、従って先ず第一にこの「生活の破綻」と戦わねばならない。
次に「環境の無理解」ということがある。地方の人びとは保守的な性格を持っているためか、文化に対する新しい試みがなされる場合、どんなに本物の立派なものであっても、なかなか分ってくれない。むしろ、余計なものででもあるかのように自眼視し、迫害することだってあるのだ。この点、変り者に対して比較的寛容な東京に比べると、地方で文化を進めることは非常なハンディキャップを背負ってスタートに立つことになる。これが第二の戦いである。
しかし、こうした苦難には誰もが堪えうるものではない。そこで伸びてくる手が「東京への誘い」である。この誘惑には、良心的に考え、良心的に行動しようとしている者ほど迷いを感ずるであろう。それは、そうした人たちの内心には、結局東京だけが文化を生かし自分を生かす道ではないかという気持が絶えず去来するはずだからだ。僕が岐阜に来てからでも、東京に向って立って行く人を何人周囲から見送ったかしれない。それがその人の道だったのだ。しかし、その誘惑をはねのけて、じっと腰を据えている人を僕は尊敬しないわけにいかない。それだけこの第三の東京との戦いは烈しいと思うからだ。
さて、こうして地方に踏みとどまって努力する人たちに報いてくるものは一体何だろう。それにふさわしい成功なり栄誉なりがその人たちの頭上に輝くだろうか。否、今の日本では権威は東京にだけあって、東京が認めてはじめて有名になることができるのである。地方で文化を担おうと思いつめたとき、その人は一応世に出る望みを諦め去っているのではなかろうか。ただ、その人の心深く、その後いくたびも「無名という憂悶」が襲ってくるに違いない。その憂悶との人間的な戦いを僕は第四に挙げたい。
最後に、その人は「東京からの軽侮」に堪えねばならない。東京の人びとは一流はすべて東京にあると思っている。成程、その優越感の理由も分らないではない。たしかに一般に考えられている地方文化とは、批判のないのをいいことにしてあまり勉強せず、初めから一流であることを放棄し、適当なところに安住しているぬるま湯文化なのだ。そういう人たちが指導者として地方を代表しているのである。これでは東京が地方を見くだすのも無理はない」だからといって、多くの苦難に堪えて本物の文化を白身に体現しょうとしている人たちまで一括して軽侮していいものだろうか。この人たちは事実浴びせかかるこうしたいわれなき軽侮にさえ歯をくいしばって我慢しているのだ。そうして黙々として彼ら彼らの道を歩く、僅かな仲間の理解と本人の内心の満足とだけがその道を祝福するであろう。
僕はその悲劇に対して脱帽する他ないのだ。
林健太郎・辻村明 共編「泉は涸れず ー丸山勝廣と群馬交響楽団ー」 (1998年12月10日発行 毎日新聞社刊)より
この出会いがなければ・・・、
音楽モデル県、音楽センター建設等は実現しなかったかもしれない。
2014.8.30
(注)「観音山日乗」の旧サイトからの転載です。